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【復刻豆】 ウメヤ ブレンド :200g





1927年から1997年に閉店するまでの間、東京都港区西新橋の日比谷通り沿いに、この喫茶店はありました。松屋珈琲店はウメヤが開店する時よりコーヒーを納めておりました。当初は、まだコーヒーを飲む人はもちろんの事、自動車やバイクでさえ、まだ普及していなかった時代です。このお店に来店するお客様は皆ハイカラでイキな人たちだったそうです。


昭和20年、戦争が終わって、或る日梅屋の達太郎氏(ウメヤ・コーヒー店)が紅茶でも売って貰えないかと訪ねて来た。「コーヒーも有るよ」と言ったら、びっくりして「いれ方」から指導して、一目散に持って帰ると「ウメヤ」でコーヒーを売り出した。バナナの室が地下にあって家族が住んでいた。焼け跡の材木を集めて上屋を組み立て屋根は焼トタンで葺いた。机も椅子も電柱の丸いのを切って火であぶって藁で磨いて並べた。裏隣りは製材場だったのでおが屑が山とあった。鉄板でストーブを手作りして、これを燃やして暖房とした。しばしばストーブを突っついて火を立てては爆発したりして、まつ毛まで焦がしたりした。


土曜日には夜行で松屋珈琲店の潤とスキーを担いで湯沢へ出掛け湯沢観光ホテルに泊まった。近所の店屋で少量の小豆やリックサック一杯の干し柿を担いで上野駅を難なく通り過ぎた。闇屋は赤羽で下車して取締りを逃れたがスキー姿の我々は何のお咎めもなかった。


月曜日に店で干し柿とコーヒーを売るとたちまちに売れて、次の土曜日にも湯沢にスキーに行き毎週出稼ぎを繰り返した。ホテル宿の駐留軍に掛け合って生ビールをねだると、何と1ケースごとくれたのには驚いた。


ウメヤのコーヒーは、戦時中、統制会社日本珈琲社が軍用に輸入した最高級品の在庫だったから品質は申し分なかった。暫くしてモンサント社の1ポンド缶入りサッカリンを入手、高価だったので何十本も銀行の金庫に預けた程だった。砂糖は無くて甘味に飢えていたから大好評だった。


計算には全く明るい達太郎氏(京橋商業:現在の芝商)は、国税局のメンバーが参考店として度々習いに来た位であった。松屋珈琲店のサジェスチョンは、トーストにまで及んで1本3斤の食パンを11枚切りとして特製オーブン(清水製パン機製作所)で焼いたのをサービスしたから、客は驚いて大好評だった。今日の喫茶店のトーストが厚切りなのは、ここが原点である。バターが高騰した時点でケーキ用の底カップで半量とし、半量分はジャムを付けた。コーヒーにはドーナツが定番のメニューなので小島製菓にケーキドーナツを作らせた。


達太郎は兵隊に入隊する前、フルーツ屋の祖父と働き、早朝市場に行き、大買い癖の父の命で大八車に山ほど仕入れて、それを引いて店まで帰る日が続いた。あの荷物の重さと辛さを又やりたくないと云うのが本音で喫茶業になって本望を達した達太郎だった。


店の朝の9時,10時には近所の家具製造の親方達が集まって情報と商売の交換の場として大いに談論風発した。店の横に池と植木を囲むガラス張りとした。外を通る客から見える明るさを当時としては、斬新さが売り物でもあった。閉鎖的な喫茶店ではなしにモダンな様子が溢れていたのである。


パスポートも取るのも難しい時代、ドイツに真っ先に行ってスキーを板垣教授と共にし、総てに新しさを追い、ガラスのポットを使った店などない時分にそのパフォーマンスを客に見せていた。
バーンズの抽出機を導入したのも達太郎であった。当時でも50万円位する高級品だったが、多忙な店には最高の設備で客受けもも良かった。


近隣の店からも珈琲の入手を働きかけてきたが、数量が限られていて、充分供給とはいかなかったが、ウメヤだけは特別扱ひだった。

【復刻豆】 ウメヤ ブレンド :200g
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